法市農村舞台第二回公演…1
車人形と箱廻しが共演

平成16年10月3日、吉野川を見下ろす三好町の香川県寄りの山あいにある法市(ほいち)で催した第2回法市農村舞台公演は、昨年10月22日の復活公演の10日前、同年10月12日に仕掛けが始まった。
当日は兵庫県三原町で開かれていた人形サミットの最終日。同県姫路市の民族音楽研究会「こまの会」に所属する民族歌舞団「花こま」(藤尾千恵子代表)がサミットで公演する、その手伝いで三原町に来ていた同会所属の森崎芳樹さんが、会場でたまたま見かけた写真に森崎さんの母方の祖父、大久保進さんが写っていた。写真は法市復活公演の準備作業を撮ったもので、大久保さんは法市の代表として後に法市農村舞台保存会の会長になる。
「あーっ!これ、僕のおじいちゃんや!」。森崎さんが驚いて叫んだ一言から第2回公演の構想がスタートした。「なに、なに、どうしたの?」――花こまのメンバーが次々と集まってきて写真に見入る。徳島にはかつて200棟を超える農村舞台があり、今も100棟前後が残る全国最大の舞台王国であること、なかでも法市の舞台は平舞台と手すりのある人形浄瑠璃舞台の転換機構がある全国でも有数の貴重な舞台であること……農村舞台の公演者を探しに写真を持ってきていた徳島人の説明に、一堂は興味深く耳を傾けた。
実はその説明中、同じ会場で、徳島の「阿波木偶箱廻しを復活する会」(辻本一英代表)が一人遣いの人形芝居「箱廻し」を公演していた。奇しくも、花こまと箱廻しは法市の第2回公演で共演することになる。1年がかりで構想を練った第2回公演は人形芝居集団の再会も1年ぶりに実現した。人の縁、巡り合わせは実に不思議なものだ。神の手が撚った糸でつながっているのか。
 祖父が復活公演を仕切ると聞いて、森崎さんは居ても立ってもいられず、母を連れ、復活公演にやってきた。昨年10月22日は平日だったが、前日に徹夜仕事をこなし、だるい体にむち打って。三原で会った徳島人が「次回は是非、花こまが来てください」としつこく声をかける。頭がぼーっとしたが、法市の人に「あー、大久保さんのお孫さん? よう、来たねえ」などと温かく迎えられ、心がなごんだ。

「帰ってこいよ」と言いたい

 舞台の復活公演について、我々は
「イベントに終わらせてはいけない。やるのならずっと継続しよう」
「そのためには地元の人が喜ぶことが一番大事だ」
「身内が帰ってくることを地元の人は一番喜ぶ」
「子や孫は盆や正月にしか帰ってこないし、来ても地域の人と全く交流しない」
「復活公演で戻ってきて地元の人と交流できたらいいね」式の議論を続けてきた。
素晴らしい舞台のある地域ほど過疎化、高齢化が進み、夫婦暮らしはまだしも一人暮らしの世帯も多い。よそ者の熱い思いだけで突っ走ってはいけない。われわれは「地元の思いを一番大事にする」ことに細心の注意を払ってきた。復活公演の話を持ちかけても「担い手がいない」「公演なんかより道路をつくってくれ」などと断られることがよくあるが、無理に説得したりしない。身の丈以上に力を入れて取り組んでも長続きしないからだ。
ところがどうだ。上那賀町拝宮(はいぎゅう)で開いた半世紀ぶりの復活公演は我々が心配するほど地元の人が熱を入れ、毎日のように舞台を修復し、男の人は木を切ってベンチをつくり、女の人は境内の草むしりにいそしんだ。「舞台の再生、芸能の振興のつもりでいたが、これはひょっとして地域おこしではないのか」――そんな思いが頭をよぎり、農村舞台の本来の姿が思い浮かんだ。
上那賀町史によると、今の木沢、木頭、上那賀の町村にはかつて120体を超える木偶(阿波人形浄瑠璃で遣う人形。明治〜昭和に活躍した人形師、初代天狗久などが製作)があり、少なくとも三つの人形座があった。(余談だが、木沢の中東村長は若い頃、持ち上がった木偶の村外への売却計画に反対し、身銭をはたいて資金を集めたが、足らず、「泣く泣く木偶を手放した」と筆者に話してくれたことがある)。
公演の詳細な記録は残っていないが、座員は農作業の合間を縫って稽古に励み、秋祭りなど年に数回の披露目の場で近隣の村から親せきや友人を集め公演していた。演じる人も見る人も身内の場合が多く、楽しみにしていた。農村舞台の復活公演に身内を呼ぶのはまさに原点の作業だ。実際、拝宮復活公演で来場者に聞いたところ「姉の出身だから」「昔公演に誘われてきたことがある」という人が多くいた。

全戸で保存会を結成

法市では全16戸が保存会を結成。第2回公演の日も人が集まりやすいように日曜に設定した。花こまも森崎さんを通じて検討を始め、平成15年11月30日は姫路市の花の北市民広場で催した公演に、しつこい徳島人を呼んでくれた。徳島人が見たのは森鴎外の「山椒太夫」より、もっとずっと古い説教浄瑠璃正本を基に、高知県出身の社会運動家であり、言語学者・小説家でもあるタカクラ・テル(本名高倉輝豊、1986年没)が書き、代表作「切支丹道成寺」で知られる邦楽の大家、平井澄子(2002年没)が曲をつけた「新曲 さんしょう太夫―鳥おい歌の段」(1967年作)だ。会場では藤尾代表が「わざわざ徳島から来てくださいました」と紹介してくれる場面もあった。
安寿と厨子王(本編では「つしおお」)の物語は多くの人が知っている。鳥おい歌の段は人買いにさらわれ、親子離ればなれとなった厨子王が佐渡で奴隷として酷使されている母を助けに行く場面を描く。徳島や大阪で浄瑠璃を聞いていた徳島人は「どうせ、また、聞いてもわからない。雰囲気だけわかればいい」と思っていたが、現代語で一語一語わかりやすい語りに感動し、人形も車人形ならではのダイナミックな動きに驚がくした。つしおお(厨子王)が人買いをやっつける場面では「岩石落とし」の荒技が飛び出し、人形が宙を飛ぶ。目を丸くした。
「ニッポン人がニッポン語でニッポン人にうったえる音楽で、そのことばがわからなかったり、内容が正確につたわらなかったりすることが、ぜったいにあってはならない」というタカクラ・テルの言葉は、「浄瑠璃はむずかしく、理解する努力をしないといけない」と考えていた徳島人にとって目からうろこが落ちる衝撃を与えた。今は徳島市の郷土文化会館だけでなく大阪の国立文楽劇場も人形浄瑠璃の公演で字幕を検討しているありさま。徳島人は浄瑠璃外題の現代語訳は見たいとも聞きたいとも思わないが、作品づくりから公演の手法までわかりやすさを追求した「鳥おい歌の段」にはつくづく感心し、徳島に招へいしたい気持ちが一層強くなった。
 続いて2週間後の平成15年12月13日。法市の集会所で開いた復活公演の反省会で、徳島人は保存会と三好町、農村舞台の会にこのときの様子を写真で説明し、招へいのための予算がとれるかどうか検討してもらうことで、おおむね了承をとった。このとき、参加した人の胸の中には「実際に事前に見てみたい」との思いが宿った。
 徳島人に花こま招致を最終的に決心させたのが、同歌舞団による平成15年12月22日の鳴門市公演だ。車人形はなかったが、寿獅子や八丈島太鼓、もちつきばやし、南京玉すだれなど多彩な芸能に舌を巻いた。獅子は徳島の場合、神代踊りなどに合わせ、ゆったりと舞う神社の奉納芸が多いが、こちらは生きているかの如く大胆に繊細に、時に素早く時にゆったりと動く。四国では香川県などに見られる舞い方で、観客に大受けだった。もちつきや玉すだれには子供が参加、言うことをなかなか聞かない、あるいはやろうとしてもできない子供にも手とり足とり懸命に教える姿に感動し、「法市公演もこんな風に地元の人が参加したら盛り上がるだろう」と夢想した。


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阿波農村舞台の会